太田きよ子主張 〜葉隠と吉野ヶ里〜
葉隠と吉野ヶ里は何れも佐賀の貴重な文化遺産と申せましょう。
葉隠には「大慈悲を起こし人の為になるべき事」とか「恋の至極は忍ぶ恋と見たて候」とかの不易なる言葉が、きら星の如く輝いています。
吉野ケ里遺跡も佐賀を全国に有名にした大いなる遺跡であり、研究者のお話を聞けば聞くほどその文化度の高さに驚くばかりです。
今は亡き、神埼高校の教師で吉野ヶ里遺跡群の発見者、七田忠志先生の教え子の一人として、恩師の学問的功績の偉大さと先見性に改めて胸打たれます。
報道されて運よく有名になった価値ある吉野ケ里遺跡を残してこそ、地元・神埼郡も佐賀県も発展すると考えますし、甕棺の多く埋まる祖霊の地を工業団地で造成しては青少年の精神性にも影響すると思います。保存して地元・県・国に貢献する遺跡公園に整え進める努力を教え子のひとりとして、また県職員のひとりとして、する事こそ葉隠の「人の為になるべき事」のように思えて、この言葉に突き動かされるような日々を過ごして来ました。
ふり返ってみますと、県が工業団地として造成を議決済の場所が魏志倭人伝の邪馬台国のクニの記載どおりの遺構と報道されたのは、平成元年2月23日でした。葉隠と吉野ヶ里が結びつき、この日から私には試練の日々が始まったのです。県の管理職の一保健所長が県に逆らう形で保存運動に加わるのですから、その大変さは想像していただけると思います。心身ともに疲れ一時は慢性疲労状態となり、鳥栖駅から鳥栖保健所までの13分程が歩けないようになり、西洋医学だけでなく、烏犀圓等の漢方薬を併用し切り抜けました。
吉野ヶ里は、景観と共に遺跡を全面保存したほうが県の発展に繋がると信じ、当時の香月知事にも県が購入している67ヘクタールの全面保存をお願いしつづけました。
知事も、工業団地で買い取った土地ですので心痛なさったと思います。担当の部署の職員も大変だろうと、「お許しください。計画変更して保存する為の皆さんのご苦労は、きっと後世に評価されましょうから保存へ努力なさってくださいませ。」と心の中で叫びながら保存運動の一隅に身を置いていました。
初めは「県の職員のくせに」という四面楚歌の毎日でした。数年たつうちに、なんと少しずつ応援してくださる方が増え、毀誉褒貶の落差の中で悩む事もありましたけれど、そのたびに葉隠の言葉の数々に励まされ、「遺跡を守るためだ。批難されたからといって止めてはいけない。誉められる為にしているのではないから」と、己に鞭うち続けました。
それにしても吉野ヶ里は幸運な遺跡です。
その理由を列記しますと、先ず県の所有(土地開発公社)であった事、次いで全国にセンセーショナルに報道された事。
県の文化財担当に高島忠平氏、森醇一郎氏、佛坂勝男氏、納富敏雄氏等、多士済々のメンバーがそろっていた事。
故七田忠志先生が昭和9年に考古学の雑誌に日本の歴史を書き換えるような注目すべき遺跡として論文を載せておられた事、そのご子息の忠昭氏が発掘担当者でおられた事。加えて故松尾禎作先生も七田忠志先生を援護して吉野ヶ里の重要性を当時、説きつづけておられた事。
佐原真氏、樋口隆康氏、金関恕氏、森浩一氏等、考古学会の重鎮の方々が関与してくださり応援してくださった事。
梅原猛氏、福永光司氏等、そうそうたる学者が学問的に支持し支援してくださったこと。
吉野ヶ里ブーム、考古学ブームとまでいわれた見学者の数の多さ。経済優先の世の中にあき、歴史文化やルーツ探しに渇きが生じ、文化的裕りと歴史ロマンスへの憧れが醸成され、丁度、機が熟していた事。
遺跡と景観が非常によい状態で保存されていた事。これを粗末にしたら罰が当たるという言い伝えが残り、大切にされてきた歴史があり、先祖の遺跡や奥津城を守る知恵だったのでしょう。国や県に理解者がいて下さった事。等々、本当に恵まれていた遺跡です。
それでも運動は困難を極めました。
≪高島忠平氏は、直接の担当者として立場上、保存を主張し難しい雰囲気ではないか?ならば外部の応援が無ければ、記録保存のみで遺跡は消え失せる恐れあり、それでは折角のチャンスを佐賀県が掴まえ損ねる。≫と保存運動は応援団として澎湃と起こり広がりました。
県の老人倶楽部連合会長 石田一二氏を会長に、副会長は牛島國枝女史、牧ユキエ女史、山田哲秀氏3人の下 『吉野ヶ里遺跡全面保存会』 が組織されその力強い保存運動の経緯は、記録文集『こうして吉野ヶ里は残った』にまとまられています。
その16頁に載る江永次男氏の文章は全体を記録して圧巻といわれています。
吉野ケ里遺跡が表面に出るきっかけの一つが佐賀県徐福会であった事も、佐賀の歴史の遺産として銘記すべきでしょう。約2200年昔に徐福達の渡来で、弥生文化がこの佐賀平野に花開いたのでしょうか。吉野ヶ里の甕棺の人骨と徐福が出航した中国江南の古代人骨の研究で解剖学的な類似性が分かり、歴史の重みに胸躍ります。
稲の研究にも佐賀大学の和佐野教授をはじめ多くの学者が取り組まれて、その一致性が証明されています。この面ではサガテレビの副社長でいらした内藤大典氏が、驚く程の行動力で活躍しておられます。
いよいよ、佐賀は古代中国との交流の証明の場として、国際親善に役立つ「宝物の眠る地」と注目される時が来つつあります。その大切な吉野ヶ里遺跡群の中心的な27ヘクタール余(竹原地区)が、未だ工業団地として再計画されたままですので、全面保存への保存運動が続いているところです。
吉野ヶ里に関わり感じた事は、日本は文化予算が少な過ぎると言う事です。公共事業費は世界一多く アメリカの2.7倍なのにです。
将来また吉野ヶ里のような遺跡が工業団地造成中に出土したら、文化庁が買い取り文化財に指定してくだされば苦労はないのです。
そして、そうならなければ日本の文化財は守れません。
現に、吉野ヶ里の保存運動をしている時に、奈良で長屋王邸跡がデパートの建設予定地から出土しました。日本民族の宝として、保存を多くの国民が祈りましたが叶わず、デパートが建って壊されてしまいました。結局そのデパートは経営不振と、最近ニュースが流れております。今更、遺跡は戻らず、取り返しがつきません。
フランスの文化予算の1/100しか日本の文化予算はないと聞きますが、本当でしょうか。
貴重な遺跡ですら簡単に壊すような国では、日本の自然と文化は一体どうなるのでしょうか。
記録保存の名の下に、遺跡を壊しつづけた日本の遺跡行政の貧困!!
保存会のメンバーは「有名になった吉野ヶ里を残す事により、日本の遺跡行政の転換点になるよう努力しよう」と頑張りました。そして吉野ヶ里の部分保存が成ったのを、青森県知事は来佐され、ご覧になり、青森の三内丸縄文遺跡は間もなく全面保存に変更されました。鹿児島県の上野原縄文遺跡も、鹿児島県知事が吉野ヶ里を見られ、これまた、すぐ全面保存に変えられました。そして両県とも観光に力を入れておられます。考古学会で吉野ヶ里効果とさえ言われているようです。
佐賀県民の遺跡保存の運動は、大きく日本の遺跡保存の気運を作ったとさえ言えると思います。
吉野ヶ里保存の経過を略記しますと
平成3年 7 月 1 日 工業団地白紙撤回して国に 国営公園申請(117ヘクタール)
平成4年10月27日 国営歴史公園 閣議決定
平成5年 9月 27日 工業団地案再浮上(27.5ヘクタール)
(吉野ヶ里ニューテクノパーク)
1度工業団地は白紙撤回されたのに再び何故、工業団地か!は「地元神埼町が工業団地を要望しているから」と新聞に載っていました。
神埼町民の方々に尋ねるとほとんどの方が保存を望んでおられるのに不思議です。
一方、三田川町の方々は町あげて全面保存を主張しつづけておられます。
三内丸山遺跡や上野原遺跡の全面保存による発展を見る時、私達県民は今、吉野ケ里遺跡保存への努力が問われているし、葉隠魂をも試されているでしょう。
農林省が神埼町全体を、九州で二ヶ所の「屋根の無い博物館」に選んでくださったのは、美しい農業景観が人々の心を和ませ、国土保全、環境保護にも繋がるとの企図からと思います。保存に協力して下さったここに書けない多くの方々に感謝しつつ、貝紫染めの絹が出土した吉野ケ里遺跡が、古代ローマ時代のシルクロードとして、景観と共に全面保存され工業団地で造成される以上の発展をもたらすよう願いつづけています。そして宮崎禮子さんの名句「弥生人の声が聞こえる」のままに、趣ある歴史公園になりますよう祈っております。
≪葉隠研究 第42号寄稿より≫